本の系譜2 中学〜高校時代(前半)

中高一貫の私立校に通っていたので他の人ほど中学高校の環境の変化がなかったため、明確に区別できないので前半、後半の2つに分けた。前半と後半の違いは推理小説ライトノベルSF小説からの脱却だ。この時期にこの手の小説をかなり読んでしまったために「こんなものか」というような結論を自分の中で作ってしまい、その後はほとんど手をつけていない。筒井康隆は例外扱い。今でも若干これらの小説を下に見ていることは確かだ。印象に残ったものは横に★印をつける。

ようやく小遣いをもらうようになり、統制経済から脱したのだが、世界は家と電車で2駅ほどの学校の間で閉じていた。小遣いのほとんどは本代で消えたと思う。この時期は「ひとりの作家の本を片っ端から読む」ということをよくやっていた。まずは星新一だった。新潮文庫星新一の本を片っ端から買い込んで、いつのまにやら自分の家の本棚に黄緑の背表紙の本がずらっと並んでいた。学校の成績が芳しくないのを本ばっかり読んでいるせいだと断じられ、父親に「星新一ばっかり読んで」と夜中に詰め寄られたのを覚えている。腹が立ったので同級生に1冊10円でかなり売り払った。星新一ショートショートもあらかた読み終えてしまったので、今度は西村京太郎に移った。鉄道マニアの友達から1冊借りたのが契機だったと思う。20冊ばかり時刻表を使ったトリックの話を読んだところで自分の中で飽きた。赤川次郎、西村京太郎と当時の2大推理小説家の本をかなり読んでしまったせいか、現代作家の推理小説にはこれ以降あまり興味が湧かなくなってしまった。次によく読んだのが阿刀田高だ。読む本がなくなって本屋の本棚で見つけたのが『ナポレオン狂』だった。「大人のためのブラックジョーク」とも言うべきカテゴリーで、今までの作家と違って、あからさまな性描写のようなものがときどき出てくるような話はドキドキものだった。ただ、読み進めていくうちに漠然と「大人」に関するネガティブなイメージが植え付けられるようになった。「家庭」に関して期待感のなさの原因の一端はになっていると思う。これもあらかた読み終えた頃に前に読まずに放置していた星新一のエッセー集に筒井康隆の名前があった。「あんな小説を書くのに本人はいたって温厚な人である」みたいなことが書いてあって、「あんな小説」とは一体どんなものなんだろうということで試しに買ってみた。買う直前に親戚の叔母さんに「筒井康隆ってどんな話書くの?」と聞いたことを覚えている。当時はまだ「大人は自分の知らないことを随分と知っている」という幻想を持っていたのだ。「知らん」という返事を返されたが、もしかしたら知ってたがわざと答えなかったのかもしれない。以後約5,6年は買う本のメインは筒井康隆だった。このころ、学校の帰り道の途中に結構しっかりした図書館を見つけ、その市の住民でなかったのだが、「通ってればOK」ということで本を借りることができた。ここでいろいろ借りて読んだ。なにしろタダというのがありがたかった。ハードカバーばっかりで重かったのでその場で読んでしまうことも多かった。幸い中高と帰宅部だったので時間はたっぷりあった。家の近くの書店で立ち読みもよくしていて、立ち読みだけで全部読んでしまった本も結構あったと思う。